昼食後の講義室に漂う、あの独特の静かな闘い。必死に睡魔と格闘した経験は、九大生なら誰もがあるはずだ。私たちはこの普遍的な課題に、脳科学の視点から光を当てた先輩がいると聞き、その研究室の扉を叩いた。
大学院システム生命科学府の博士課程に在籍する、李虹佳(Li Hongjia)さん。彼女こそ、私たちの「食」と「集中力」の間に横たわる、知られざる関係を解き明かしたその人だ。インタビュアーの一人がかつて被験者として参加したという偶然の縁もあり、私たちは彼女の研究の核心とその裏側に迫った。
始まりは「チョコと脳波」。身近なチャーハンが研究対象になった理由
「なぜ、チャーハンだったのですか?」 私たちの素朴な疑問に、李さんは研究の源流から語り始めてくれた。「発端は、研究室の先輩が持っていた『チョコレートを食べた後の脳波はどう変化するんだろう?』という純粋な探究心でした。そこに食品メーカーのニチレイさんとの共同研究という機会が重なり、研究が一気に具体化したんです」
数ある食品の中からチャーハンが選ばれたのは、科学的な精度を追求した結果だ。 「実験である以上、条件の均一性が不可欠です。誰が調理しても味がブレない冷凍食品は、その点で最適でした。さらに、パスタや餃子など他の候補と比較し、食べ方や好みの影響を受けにくくアジア人に馴染みのあるチャーハンが、最も客観的なデータを取得するのにふさわしいと判断したのです」。 身近なテーマの裏には、サイエンティストとしての冷静な思考があった。
「美味しい」の正体を暴け。緻密に設計された実験デザイン
李さんは、「美味しさ」という主観的な感覚が脳機能に与える影響を、客観的なデータで証明するために、緻密な実験を組んだ。
まず、5種類のチャーハンによる「予備実験」で、客観的な美味しさのランキングを作成。その上で、評価が最高だったチャーハンと最低だったチャーハンを用いた本実験を2段階で実施した。
【実験1】では、異なるグループにそれぞれのチャーハンを食べてもらい、「グループ間の差」を比較。
【実験2】では、同じ被験者が期間を空けて両方を体験し、「一個人の脳内で起こる変化」をより精密に追跡した。
被験者は食後、注意力や情報処理能力を測る「ストループ課題」に挑戦。その間の脳波を記録し、脳内で何が起きているかを詳細に分析した。
脳が示した明確な答え。「美味しさ」は覚醒と意欲のトリガーだった
分析結果は、私たちの経験則を鮮やかに裏付けるものだった。
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知的パフォーマンスの向上 「美味しい」と感じるチャーハンを食べたグループは、そうでないグループより、認知課題への反応時間が有意に速かった。 これは、美味しいと感じる食事が、その後の思考のスピードや正確性を高めることを示している。
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脳波が捉えた「覚醒」と「意欲」のサイン 脳波データは、そのメカニズムをさらに深く解き明かした。美味しい食事の後、脳は「アイドリング状態」を示すアルファ波が大きく減少し、活発な「覚醒状態」へとシフトしていた。さらに、目標に向かう前向きな意欲、いわゆる「アプローチ・モチベーション」に関わる脳活動も活発化していることが確認された。
「『美味しい』というポジティブな情動が、単なる満足感にとどまらず、脳を覚醒させ、次の知的活動への意欲を引き出すトリガーとして機能している。その可能性が強く示唆されました」と李さんは語る。
研究成果の裏側にある、大学院生のリアルな探求の日々
しかし、この明快な結論に至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。 「最初の分析では、統計的な補正をかけると、有意な差を示した電極がたった一つ、という絶望的な結果でした。研究の厳しさを痛感した瞬間です」。
論文の査読プロセスも、大きな挑戦だったという。 「私たちの研究は『食』と『脳科学』という異分野にまたがるため、両方に精通した専門家を探すのが非常に困難でした。3人目の査読者が決まったと思ったら、最初のお一人が待ちきれずにチームを抜けてしまう、といった綱渡りのような状況も経験しました」。 一つの研究成果が世に出る裏には、私たちが想像する以上の時間と、研究者の粘り強い情熱が注がれているのだ。
研究室選びの視点
李さんはなぜ、この研究室を選んだのだろうか。その視点は、これから大学院や研究室を選ぶ私たちにとって興味深い。
「もちろん研究テーマが魅力的だったのが第一ですが、もう一つの決め手は、指導教員である岡本先生のホームページから伝わってくる人柄と、研究室の『雰囲気』でした。論文を読むだけではわからない、その研究室が持つカルチャーは、非常に重要だと思います」。
実際、その直感は正しかったという。 「研究で行き詰まった時、プログラミングで挫折しそうになった時、いつも親身に相談に乗ってくれる先生や先輩方がいました。この環境でなければ、研究を続けることは難しかったかもしれません」。
李さんの研究は、日々の「美味しい」という選択が、私たちの学習や研究といった知的活動を支える、重要な要素であることを教えてくれる。
昼食のメニューを選ぶ。そのありふれた行為一つにも、午後のパフォーマンスを左右する科学が隠れているのだ。そう考えると、毎日の食事が少しだけ、知的で戦略的なものに見えてこないだろうか。